第3部

 

同じ高校生同士なら、だいたい生活のパターンなども似ているだろうから、ある程度時間の感覚は同じだと考えて良い。だから、例えば8時とか9時を回れば家に帰らないと拙いことになる、と思うのが普通だ。しかし、社会人の時間の間隔は全く予想できない。

テレビなどで親父が夜遅くまで酔っぱらって酒を飲んでいたり、小料理屋の女将に『そろそろ帰った方が良いですよ』などと言われているところからすると真夜中まで時間が自由になるのかも知れない。もちろん、菜摘だって普通の高校生だから、家に電話をしたとしても8時半が良いところで、9時を回ればちゃんとした言い訳を用意しないといけない。

取り敢えず菜摘は家に電話して友達の家に寄っていくので帰宅は9時近くになることを言ったが、夕食はどうするのかと聞かれて慌てて友達と食べていくから要らないと言ってしまった。

電話を切ってから、取り敢えず時間は確保した物の、今度は本当にそんなに時間が必要なのか、直ぐに別れることになったらどうするのか、が心配になってきた。元々晃一の予定など一切知らないのだから、会って話ができるかどうかすら分からない。今朝、晃一が改札の前で待っていてくれたことだって、『今日は都合が悪いから夕方は会えない』と言うつもりだったのかも知れないのだ。そうなれば自分一人で時間を潰すことになる。漫喫に行けば時間はつぶれるが、その出費は小さくはない。

本屋であれやこれや考えている間に晃一の帰宅時間と思われる時間が近づいてきたので、取り敢えず駅に向かうことにした。かなり時間を潰したので店を出るときに店員にチラッと睨まれたが菜摘はそれどころではなく、ハラハラしながらいつもの改札へと向かった。

改札が近づいてきたとき、菜摘は改札の方を遠くから見ながら近づいていった。どうやらまだ晃一は来ていないようだ。菜摘の調査、と言っても傘を渡されたり『びしょ濡れ事件』が発生した時間からの推定だが、晃一がこの改札を使用するまであと20分はあるはずだから当たり前と言えばそうなのだが、なんとなく少しホッとした。唯、今日は友達と話をしながら時間を潰すわけにも行かないので、切符売り場の付近でポツンと立って晃一を待つことになる。誰か知り合いに声を掛けられたら適当にごまかさなくてはいけないのがちょっと負担だったし、それよりも晃一がちゃんと来るかどうかが不安だったので、取り敢えずなるべく目立つ場所に立って晃一を待つことにした。

菜摘はどれだけ待たなくてはいけないのか予想もできず、鞄から本を取り出そうとしていた時、あっけなく心配な時間は終わりを告げることになった。

「こんにちは」

と後ろから声を掛けられ、慌てて振り返ると晃一が立っていた。こんなに早く来るとは思っても見なかったので、一瞬頭の中が真っ白になる。

「あっ、こんにちは」

菜摘は晃一が来てくれたことに取り敢えず安心した。

「それじゃ、行こうか?」

「あ、はいっ」

菜摘はそう答えて晃一の後を付いて改札に入ったが、どこに行くことになるのか全く予想が付かなかった。今朝は、夕方に会いたい、と言っただけでどこかに行こうなどと言った覚えは無いので、どこに連れて行かれるのか予想すらできない。階段を通り抜けてホームに立つと、晃一からその答を聞くことができた。

「取り敢えず、次の駅まで行こうか?」

と晃一が言ったので、

「はい」

と答えた。どうやら晃一もこの駅からは離れたいと思っているらしい。その理由を聞こうとした時、快速が来るアナウンスが入ったので晃一の後ろに並んで快速に乗り込んだ。車内では静かに晃一の側に立っているだけで声を掛けることはできなかったが、何となく安心できた。とにかくこれ以上は会えるか会えないかの心配の必要はしなくて良いのだ。それに移動すると言っても一駅だし、菜摘の家の方向にも近くなるので帰宅時間の心配はあまりしなくても済みそうだと思った。

そして数分の後、隣の駅に降りた二人は並んで歩き始めた。

「石原さん?」

「はい」

ちょっと緊張気味に菜摘が答えると、

「何時まで大丈夫?」

と晃一が聞いてきた。

「あ、あの、9時までなら」

と答えると、

「それじゃ、簡単に食事をしていこうか?」

と晃一が誘ってくれた。

「はい」

菜摘が再び答えると、

「何を食べたいのかな?教えてくれるとありがたいけど」

と晃一が言ってきたので、

「何でも食べます。大丈夫です」

と更に緊張して答えた。自分の声から『ちょっと緊張しすぎ』だと思ったがどうすることもできない。なんと言ってもこんなシチュエーションは初めてなのだ。緊張するなと言っても無理な話だった。唯、晃一が菜摘のそんな様子を全く気にしていない様子なのが嬉しかった。

「それじゃ、好きな物は何?肉とか魚とか・・・・」

「はい、どっちでも食べます」

と言ってしまってから『失敗した』と思った。それではせっかく好きな物を聞いてくれた意味がないではないか。この前のテレビドラマでOLに向かって上司が『何でも良いって言うのは相手に選択を放り投げるって事だから親切とは言えないな』とぼやいていたのを思い出した。だから一緒に歩きながら晃一がチラッと菜摘の方を見たので思わず顔を背けてしまった。『こんなことじゃ嫌われちゃうよ』ともう一人の自分の声がする。『だって私、いっぱいいっぱいだよ』と心の中で言い訳をした。

「それじゃ、任せて貰って良いかな?」

と晃一が言ってくれたので、

「はい、任せます、じゃなくてお任せします」

と菜摘が更に緊張して答えた。

「うん、それじゃ、あの店にしようか」

そう言って晃一が一軒の店の前で立ち止まった。どうやらしゃぶしゃぶの店らしい。もちろん菜摘は家族以外とはこんな店に入ったことはない。と言うか、年に何度も入る店ではない。店に入る時、晃一がちょっと菜摘に顔を近づけたのでドキッとしたが、晃一は、

「言っとくけど、俺の奢りだからね」

と晃一が言ってニッコリ笑っただけだった。

店の中に入ると、ポツポツと客がいて、二人はテーブル席に通された。店員がメニューとお茶を置いていくと、晃一が素早く二人分の注文を済ませる。続いて晃一が、

「喉が渇いたろ?何を飲むかな?ソフトドリンクはこれだけど?」

と言ってメニューを差し出した。菜摘はそこでやっと気合いを入れてメニューを読み、ウーロン茶を見つけたので、

「これ・・・」

と言って指差すと晃一は

「俺はビールを飲ませて貰おうかな。それじゃ、ウーロン茶と生を一つ」

と言って飲み物も注文した。

「あの・・・『生』って・・・???」

「あぁ、生ビールのことだよ。『生』だけで普通は通じるから」

「そうなんだ・・・・」

そこまでやると、取り敢えず二人には何もすることが無くなった。『何か話さなきゃ』と菜摘が無言のプレッシャーに押しつぶされそうになっていると、晃一から、

「今朝はありがとう。声をかけれくれたのに返事できなくてごめんね」

と晃一から声を掛けてきた。

「いえ、そんなことは・・・・」

思ったように上手く受け答えができないもどかしさにちょっとがっかりしながら菜摘が答えた。

「駅では時間についてちゃんと話さなかったけど、だいぶ待ったの?」

「そんなことはないです。直ぐでした」

「でも、学校が終わる時間よりはだいぶ遅いと思うけど?」

「本屋で立ち読みしてから来たから」

「そうか、時間を合わせてくれたんだね。ありがとう。あのね、いつもは残業してくるからもう少し遅い時間になるんだけど、もう少しくらいなら早く会社を出ることもあるんだ」

「そうなんですか」

「石原さんは?」

「学校が終わるのは4時だけど、出るのは4時半くらいです」

「それじゃ、だいぶ待たせちゃったね」

「いえ、大丈夫です」

「そうそう、今日声を掛けてくれて、夜まで時間を作ってくれたのは、俺と話がしたかったから、って思っても良いのかな?」

晃一はいきなり核心を突いてきた。それが分かったので菜摘も緊張した。

「あ、はい、そうです」

菜摘は自分でちょっと声が震えていると思った。

「良かった。嬉しいな。こんな可愛い子と食事ができるなんて」

晃一のボケをかましたような答えに菜摘はちょっと意外に思った。

「そんなことは・・・・」

「実は俺も声を掛けたかったんだけど、勇気が出なくてね。嫌われるかなって思ったから」

「そんなわけ・・・・・」

「ううん、俺は石原さんほど勇気がないんだな。だから、今日は声を掛けてくれたお礼なんだ。遠慮無く食べてね」

と晃一が言った。何だか変な雰囲気になってきた。さっきまでは晃一に自分が簡単な返事しかしていなかったので、会話が弾むはずはないと思っていたが、こう言う話になってくると、何だか菜摘の方が偉いみたいな感じた。すると、自然に菜摘の緊張も解れていった。

二人に飲み物が出て、順番に鍋だの野菜だのが運ばれてくるとテーブルの上が俄然賑やかになってくる。

「そうそう、まだちゃんと自己紹介してなかったね。名前は三谷晃一だって言うのは言ったけど、仕事は会社で製造と販売の調整をやってるんだ。課長なんだよ」

「販売と調整・・・??」

「うん、会社ではいろいろ作ってるけど、工場は別の所にあって、今勤めているところは本社だから事務所みたいなものだけどね」

「販売と調整って、良く分からないけど、コンピューターとか?」

「ううん、そうだな、分かり易く言うと、物を売っている人と作っている人の仲立ちって言うか・・・・」

「課長さんて机に座って命令しているんじゃないんですか?」

「そう、それはそうなんだけど、自分でやることの方が多いね」

「ふうん・・・・・」

「それでね・・・・」

晃一が話をしているのを聞きながら、菜摘はだんだん心が解れていくのを感じていた。目の前の晃一は菜摘に話をしながら野菜を鍋に入れたり豆腐や葛切りを入れたりしながらどんどんしゃぶしゃぶの準備をしている。菜摘は目の前で自然に会話が成り立ち、食事の支度がされていくのを見ながら、晃一に全てを任せている安心感を感じていた。余計な心配などする必要はなかった。やはり晃一は大人なのだ。そして自分は今、一人の女性としてその前にいる、そんな気がして嬉しかった。

「石原さんは兄弟は?」

と言われて少し緊張した。あまり家族のことは触れて欲しくないのだ。実は菜摘には父親がいなかった。だから、家族のことはあまり言いたくない。

「あの・・・・・妹が・・・います・・・・」

その菜摘の言い方が少し変だと気が付いたのだろう、晃一はそれ以上聞こうとしなかった。直ぐに話題を変える。

「それじゃ、学校では部活とかしてるの?」

「いいえ、前は少しだけ書道部に入ってたけど、お金もかかるし・・・・」

と言うと、

「そうか。それじゃ、行きたいところとか、ある?」

とどんどん話を振っていった。

「行きたいところ?今、ですか?」

菜摘は話しやすい話題に変わったので、いっきに気が楽になった。もともと菜摘の方からも話したいことは山ほどあるのだ。

「今でも、これからでも、いつでも良いけど」

「遊びに?」

「うん、遊びにでも良いし、勉強にでも良いし、それとも出かけるのはあんまり好きじゃないのかな?」

「そんなことないです。今、行きたいところは、お台場かな?」

「お台場?えーとナムコナンジャタウン、とかだっけ?」

「それも良いけど、デックス東京ビーチとか」

菜摘は晃一との話が盛り上がってきたので嬉しくなると同時に安心した。これでどうやらいつものペースで話ができそうだ。ちょっとは我が儘だって言ってみたい。

「買い物に行きたいの?」

「買い物って言うか、見てみたいって言うか、特に買いたい物はないけど、何て言うか、遊びに行ってみたいなって」

「そうか、そう言うところを見ると、学校は進学校なの?」

「はい、一応は」