第4部
「それで、一緒に遊びに行ってくれる友達はあんまりいないのか。みんな勉強してるんだね」
「なかなかみんなの予定が合わなくて、夏休みには行きたいねって言ってるんですけど」
「受験生は大変だね。菜摘ちゃんも勉強は忙しいの?」
「結構忙しいかな・・・、うん忙しいな」
「休みの日はずっと勉強なの?」
「日曜日とかはなるべく外に出て遊びに行きたいから、その分いつも平日の勉強の時間を長めにしてるのに、なかなか遊びに行けなくて」
「ふうん、それなら、もし俺と一緒で良かったら、いつでも連れて行ってあげるよ」
「え?三谷さんと?ふうん」
晃一は『しまった』と思った。軽いノリで言ってしまったが、菜摘に下心があると思われてしまったらしい。
「ごめん。そんなつもりじゃなくて、気を悪くしたんなら撤回します」
その言い方があまりに仕事っぽかったので、菜摘はケラケラと笑った。さっき『ふうん』と言ったのは、菜摘の方から仕掛けなければ二人でどこかに出かけることなど無いと思っていたのに、晃一の方から仕掛けてきたので意外に思ったという意味なのだ。それなら『ちょっと意地悪してみるかな』と思った。
「そうなんだ。へぇぇ、で、『そんなつもり』ってどんなつもりなの?」
「そ、それは・・・・・・」
晃一が困った顔をしたので直ぐにフォローに入る。
「ごめんなさい。意地悪言っちゃって。でも、ちょっと安心したな。三谷さんが話しやすい人で」
「怒ってないの?」
「全然。大人の三谷さんでも慌てると子供みたい」
「え?こども?」
「そう、私の妹みたい」
「そうなんだ。たぶん・・・・悪い印象じゃないよね・・・」
「ええ、全然。あ、煮立ってきてる」
「それじゃ食べようか。はい、お肉をどうぞ」
「はい、いただきまぁす」
菜摘は晃一の慌てた姿を見て、一気に気が楽になった。別に晃一の様子から下心があるなどと思ったわけではない。単にちょっと甘えてみただけなのだ。もしかしたら、下心というのなら、自分の方にこそあるのかも知れないと思った。もちろん、それは内緒だが。
「三谷さんはどんな所に住んでるの?」
「俺?快速の終点から歩いて15分ほどかな。会社の社宅だよ」
「何人家族なの?」
「一人住まいだよ」
その答えに菜摘は敏感に反応した。一人住まいと言うことは独身と言うことだろうか?とてもそうは見えないが、取り敢えずそれ以上は詮索しないことにした。たぶん、聞けば教えてくれるだろうが、今はまだ秘密めいた存在のままにしておきたかった。
「それじゃ、ごはんとかは?」
「これが今日の夕食だよ。いつもはコンビニで弁当を買って帰るだけだから」
「そうなんだ」
「だから、今日はとっても美味しいな。一人で食べるのは味気ないからね」
「会社の人とか誘って食べればいいのに」
「そうかも知れないけど、みんなそれぞれの生活があるし、会社の人とはね・・・・」
「会社の人はだめなの?」
「だめって言うか、どうしても会社の関係を引きずるだろ?食事中でも上司には気を使わなきゃとかね」
「気を使うのが嫌なんだ」
「嫌って言うか、使われるのが疲れるって言うか・・・・」
「そうか、偉いんだ」
「そんなに偉い訳じゃないけど、上司も部下もいるからね・・・」
それを聞いて菜摘は、何だか自分に近いような気がして嬉しかった。菜摘も友達を誘いたいのだが、なかなか相手のことを考えるとそうもいかない。友達はいろいろな塾に通ったりスクールに行ったりしているが、母親に負担を掛けたくない菜摘はどこにも通っていなかった。その分、他の友達よりは時間があるのだ。
菜摘が打ち解けたことで食事は思いの外会話が弾み、食べ盛りの菜摘がお肉をぺろっと平らげたので追加をしたりしてあっという間に2時間近くが経った。晃一もビールをお代わりしたし、菜摘も晃一のデザートを貰ったりして最高に楽しい食事になった。自分だけ美味しい食事にありついたことが妹や母にちょっと後ろめたかったが、楽しさの方がずっと勝っていたので今日は許して貰おうと思った。
食事の最後にお互いの携帯で連絡先を交換すると、自然と会話はその後のことに移った。
「石原さん、良かったら、また次も声を掛けてね」
「はい、もちろん」
「食べたいものとか、行きたいところとかあれば協力するよ」
「それじゃ、連れて行って貰おうかな?」
「デックス東京ビーチ?」
「うん、それもあるけど、どうしようかな?」
「いつ?」
「日曜日とかはだめ?」
「良いよ。空いてるから」
「うわぁ、どうしようかな。楽しみだな」
「それじゃ、取り敢えず時間と場所だけ決めても良い?」
「うん」
「何時に出られるの?」
「何時でも」
「それじゃ、9時にあの改札にしようか」
「うん、わかりました」
「どこに行くかはその時までに決めておいてね」
「どこにしようかな?楽しみだな」
菜摘は日曜日にデートの約束ができたことで一気に心が暖かくなった。『久しぶりだな、こんな気持ち』と思った。今までの高校生の彼ができた時とはちょっと違う、何と言うか念願叶ったというか、大人の仲間入りができたというか、父親に甘えられるというか、新しい世界が広がったというか、複雑な気持ちだった。
駅までの帰り道、菜摘は晃一にぴったりと寄り添うようにして歩き始めた。菜摘の気持ちからは自然にそうなったのだ。しかし、晃一は菜摘ほどではなかった。確かに可愛らしい少女と遊びに行く約束はしたが、言ってみればそれだけだ。この年頃の女の子は気まぐれだから財布代わりに誘っているだけかも知れないと思ったし、そうでなければ単に気分転換したいと言うだけかもしれないと思った。だから、菜摘が寄り添うように歩き始めた時、ちょっと違和感を感じた。どうして菜摘がこんなにニコニコして寄り添ってくるのか理解できなかったのだ。『高校生もいろいろストレスがあるんだろうな』くらいにしか思わなかった。
しかし、そんな晃一の甘い考えは、駅までの道のりでたちまち砕け散ることになった。
「あの・・・・・、お願いがあるんですけど・・・・」
甘えるような口調で菜摘が晃一に言った。
「なんだい?言ってごらん?」
「教えていただいたアドレスにメールを送っても、良いですか?」
「ああ、もちろん良いよ」
「うわぁ、良かった。はい、送っちゃいます」
「何でも良いよ。携帯はたいてい持ち歩いてるから」
「はい」
「あの・・・、日曜日の前にも送って良いですか?」
「もちろん。待ち合わせの場所と時間は決めたけど、あの場所はどうしたもんかな?って思ってたんだ。だから、別の場所にしようかとも思うしね」
「はい、私も」
「なんか、お互いの知り合いがいっぱい通る改札って言うのも、見せつける訳じゃないけど気になるからね」
「はい、それじゃ、変えますか?」
「そうだね、また連絡するよ」
「はい、私も」
菜摘はそう言うと、いきなり晃一の腕をギュッと掴んだ。晃一が『えっ!』という感じで驚くと菜摘は慌てて離れて、
「ごめんなさい」
と言った。そして、わざと距離を置いて歩き始めた。
実は、菜摘にしてみれば待ち合わせの改札などどこでも良かった。言ってみれば晃一に話を合わせただけなのだ。別に見られても構わないし、どうせ日曜日なら部活に出てくる生徒はもっと前に通るから、誰かに見られるとは思わなかった。ただ、晃一と二人で決めた改札、と言うのが二人だけの空間のようで嬉しかっただけだった。それに、二人でメールをやりとりする『お題』ができただけでも嬉しい。これで堂々とメールを送ることができるし、返事だって貰える。今の菜摘にとっては、晃一からメールを貰えるなら、別に何が書いてあっても関係なかった。
二人が駅に着くと、何故か人で溢れていた。放送では人身事故で止まっていた運行が間もなく再開されるという。
「あーあ、これじゃぎゅうぎゅうだね」
「そうですね・・・・・」
二人は、それまでの楽しかった気持ちが暗澹たる気分になった。それに、晃一はまだビールを飲んできたからさほど気にならないが、この時間の帰宅電車の中は酒臭い。菜摘にとって見れば最悪の帰宅になってしまった。
ホームに降りるとかなりの人が電車を待っている。
「どうする?もう少し空くまで待つ?」
「でも、次の電車が直ぐに来るかどうか分からないし・・・・・遅くなるし・・・」
「放送では間もなくって言ってたけど・・・」
「直ぐに来るなら待っても良いけど・・・・」
「そうだね・・・・・」
「とにかく、一緒の電車に乗ります」
「そう・・・わかった・・・・。まぁ、混んでいるって言っても朝程じゃないだろうからね」
「はい、次の電車に乗ります」
そう言うと二人は列の最後に並んだ。
やがて電車が入ってきた時、晃一は『参ったな』と思った。窓から見える車内は朝と同じくらい人で溢れていたのだ。チラッと菜摘を見たが、特に何も言わない。そのまま人の流れに押されて車内に入ると、かなり混雑していた。菜摘は晃一から離れまいとしているようだが、どんどん引きはがされていく。それと同時に菜摘はあちこちから押されて可愛そうだ。じっと晃一を見ている。
『確かに同じ窮屈な想いをするなら知り合いの側の方が良いよな。痴漢に遭う心配もないし』そう思った晃一は、ギュッと身体を回転させて小さなスペースを作ると、菜摘をそこへ引き入れた。菜摘はちょっと驚いたようだったが、直ぐに大人しく晃一にぴったりと身体をくっつけてくる。
「ごめんね。知り合いの方がまだ良いかと思って」
「いえ、そんなことはないです」
その時、電車が揺れて菜摘が更に晃一に押し付けられた。
「ご、ごめんなさい」
「良いよ。どうにもならないから。それより、無理な姿勢になってない?足とか痛くない?」
「なんとか・・・・」
菜摘は晃一のワイシャツに顔を押し付けて、恥ずかしそうに横を向きながらそう言った。
晃一にしてみれば、菜摘の髪の良い臭いがするので酒臭い親父にくっつかれるよりは何百倍も良い状況だし、遠慮無く足を踏んでくる無礼な奴もいないので混んではいるがさほど苦ではなかった。
唯、菜摘にとってはいきなり晃一の胸に顔を押し付けることになったので、ドキドキして混雑のことなどあまり気にならなかった。僅かにYシャツの良い臭いと苦ではない程度の体臭が感じられる。『あ、身体の臭いだ』と思っただけで秘密を盗み見てしまったような気になった。
二人の身長差から菜摘の顔は晃一の肩にくる。だから、菜摘がちょっと横を向いていた顔を動かして晃一の肩越しに向こう側を見た時、晃一が、
「まるで朝と同じか、まだ酷いくらいだね」
と言った時、晃一の息が耳元にかかってゾクッとした。だから、耳を真っ赤にして唯頷くことしかできなかった。それからも晃一の息が何度も耳元にかかってくる。頭を少し回せば簡単に避けることができるのだが、菜摘は敢えてそのままにしていた。自分を心配してくれた晃一に嫌がっていると思われたくなかったし、何より晃一を感じていたかったのだ。ただ、息がかかる度にぞくぞくするのだけは困ったが。それでもやがて電車が菜摘の降りる駅に着くと、
「それじゃ、お休み」
「お休みなさい」
と言う会話だけがあって、菜摘は人の流れに消えていった。
菜摘は火照った身体を駅のホームの風で冷やしながら、まだドキドキしている自分を持て余していた。『汗臭いって思われなかったかな?』とか『今度からはちゃんと対策しておかなきゃ』とか考えながら家路に着いた。
その日から晃一の携帯には菜摘からメールが届くようになった。
『こんばんわ。今日はありがとうございました。とっても楽しかったです。ごはんも美味しかったし、三谷さんと話ができて、いろんな事が分かりました。私は楽しかったけど、三谷さんはどうでしたか?つまらない女の子って思いましたか?あんまり上手に話ができなくてごめんなさい。でも、日曜日は楽しみにしています。約束ですよ。ゴルフとかでいなくならないで下さいね。それと、電車の中では上手く話ができなくてごめんなさい。菜摘』
菜摘はこのメールを書くのに1時間以上かかった。もともと友達とのメールではSMSでも良いくらい、あまり長いメールは書かないのだが、今日は何度も書き直している内にどんどん長くなってしまった。実は、電車の中で晃一が引き寄せてくれた時、『そんなことはないです』と言ったのが気になってメールを出したのだ。自分では気にしていないという意味で言ったのだが、もしかしたら嫌だという風に取られたのかも知れないと思って電車の中からずっと気にしていた。