第49部

 

 「でもパパだって、やっぱり良い大学出てるんでしょ?」
「良い大学?国立の一番マイナーな地方の大学だけど」
「偏差値はどうだったの?」
「48くらいだったと思うな」
「それで国立には入れたの?」
「最後にはもう少し上がったと思うけど、それでも53とか・・・・良く覚えてないや」
「そうなんだ。でもやっぱりパパは頭が良いんだね」
「そんなこと無いって。偏差値の通りで、高校ではビリに近かったんだから」
「それじゃ、よっぽどレベルの高い高校だったの?」
「それが、その地域で2番目。県だと5番目くらいかな。菜摘ちゃんの高校は?」
「パパと同じくらいかな?近くにもっと良い県立、あるから」
「それじゃ、菜摘ちゃんの苦労はきっと分かってあげられると思うよ」
「そうかぁ、そうだよね。それって凄いことかも・・・・・」
菜摘は晃一が自分を分かってくれそうな経歴を持っていることに安心した。もちろんパパはすてきな人であるに越したことは無いが、あんまり近づけないほどの経歴の持ち主だとどうしようと思っていたのだ。それに、自然に進路の相談もできたことで菜摘は晃一がとても自分の側にいて貰えるのだと実感することができた。もしかしたら、こういう心の中のことが十分にわかり合ってから身体の全てをわかり合うのが自然なのかもしれないが、今は気にしないことにした。菜摘にとっては今晃一と過ごす時間が大切なのだ。
晃一は車を高速に乗り入れ、南下を始めた。幸いトラフィックは少なく、順調に流れている。今回はスポーティな車なので高速を流しているときが一番乗り心地が良い。中央環状線から湾岸線に入れば目指す水族館は直ぐだ。
水族館の少し離れた駐車場に車を止めると、二人は歩き始めた。今日は天気も良いので柔らかな潮風を受けながら歩くのも楽しい。菜摘は最初、晃一から少し離れて歩いていたが、やがて晃一の直ぐ隣を歩き始めた。そして、おそるおそるという感じで腕を伸ばしてくる。
「ん?菜摘ちゃん、甘えたくなったのかな?」
「ううん、この方が話しやすいでしょ?良い?」
「もちろん」
「うふ、よかった」
菜摘はちょっと晃一に寄りかかるようにして腕を組んで歩き始めた。
「水族館なんて久しぶりだな」
「どれくらいぶり?」
「えーと、中学の時に友達と来て以来だから・・・・3年ぶり?でもその時は、友達と外に出ることの方が冒険みたいで楽しくて、騒いでばっかりでゆっくり見てなかったなぁ」
「そうか、まだ出歩くこと自体が楽しかったんだ」
「うん、まだ子供だったから」
菜摘にとって3年前は凄く昔に感じるらしい。
「そうだね、今はもう大人の女性の入り口にいるんだもんね」
「そう、あのときとは全然違うわ」
「身体も大人になったみたいだしね」
「・・・・そう・・・・パパのおかげでね」
菜摘は顔を真っ赤にして微笑んだ。
中に入ると、菜摘は真っ先に大水槽の前に行った。土曜日なので小学生連れが多いが、混んでいると言うほどでは無く、中は比較的空いていた。
「ここでゆっくりと見てみたかったんだ。何度も考えてたの。ここでゆっくり魚が泳ぐのを見ていたいなって」
菜摘は目の前を優雅に泳ぐ魚たちをしばらく眺めることにした。時折マグロが悠々と泳いでいく姿はまさに王様の風格だ。
「すてき、海の中にいるみたい」
菜摘は晃一の腕をしっかりとつかんだまま、素晴らしい景色に見とれていたが、次第に吸い寄せられるように水槽へと身を乗り出していった。するとそこに、菜摘と同じくらいの女子高生のグループが近づいてきた。菜摘はすっと晃一に寄り添い、腕をしっかりと握って幸せそうに眺め始めた。
「ん?」
「馬鹿みたいでしょ?私。わざとパパと一緒なのを見せつけるなんて」
菜摘が水槽を眺めたまま、小声で言った。
「でも、菜摘ちゃんにとっては大切なことなんだろう?」
「大切・・かな?うん、してみたかったことだから」
すると女子高生のグループは二人から距離を置くように、少し遠回りで通り過ぎてゆく。
「なんか、ちょっとうれしい・・・・」
菜摘は初めて羨ましがられる立場になったことがとても嬉しいらしかった。ちらっと高校生たちを横目で眺めてから無言で晃一の肩に頭を寄せ、うっとりと水槽を眺めていた。『一度こうしてみたかったんだ。やっぱりパパって最高。ルックスも良いし、親子にしか見えないもの』そう心の中でつぶやいた。『今までこんなに甘えた気持ちでいた事なんて無かったな。甘えられる人、か。ふふふ、シアワセかな、私』菜摘が晃一に寄りかかってきたので、晃一は自然に菜摘の腰に手を回した。軽く抱き寄せる、というよりは細い腰を支えている、という感じだ。『あ〜ん、こんなにシアワセで良いのぉ?』菜摘は思わず抱きつきたくなったくらいだった。
しかし、その幸せな時間は長続きしなかった。ふと頭を上げたとき、少し離れたところからの視線を感じて軽く頭を回すと、さっきのグループが離れたところからじっと二人を眺めてひそひそ話している。その視線は羨ましがると言うよりは、嘲るというか、責めるような厳しい視線だ。菜摘ははっとした。『不倫カップルって思われてる』と感じた。5人ほどのグループでひそひそ話しながら、まるで値踏みするように小声で話しているようだ。ちょっと親密度が度を超したらしい。
菜摘はすっと身体を晃一から話すと、再び水槽に吸い寄せられるように軽く身を乗り出して魚を眺め始めた。そして、チラッと女の子たちを見る。女の子たちは菜摘の視線に気づいたのか、直ぐに奥へと流れていった。
「ねぇパパ、さっきの話の続きだけど、生物の勉強教えて?」
菜摘は気分を害されたので、ちょっとリセットしようと思った。
「え?なに?」
「どうして大きい魚ほど速く泳ぐの?」
「それは・・・ね・・・・、まず聞こう。どうしてだと思う?考えてごらん?」
「身体が大きいから・・・・早く泳げる・・・のかな・・???」
「もちろんそうだけど、自然はもっとしっかりと必然で成り立ってるんだ。偶然速く泳いでいるわけじゃ無くて、大きい魚は小さい魚より速く泳がなくちゃいけない理由があるんだ」
「何だろう??????速く泳がなくちゃいけない理由?」
「うん」
「追い越さないと追い越される・・・・・何言ってんだろ、私」
「がんばって」
「ヒントは?」
「食べ物・・・・」
「食べ物?大きい魚がえさを先に食べないと小さい魚に食べられちゃう・・・かな?」
「惜しいね。それもあるけどもう少し」
「うーん、わかんない。降参。教えて」
「大きい魚は小さい魚よりたくさん食べなきゃいけないだろ?そして食べるのは海草やプランクトンだけじゃ無い・・・・」
「そうか、大きい魚は小さい魚を食べなくちゃ生きていけないから速く泳ぐ必要があるんだ」
「その通り」
「ふぅん、こうやって見てれば優雅に泳いでいるだけなのにね」
「だから水族館では大きい魚が小さい魚を食べちゃわないように、いつもえさを十分に与えてるんだ。だから小さい魚も優雅に泳いでいられるんだよ」
「そうなんだ・・・・知らなかった」
「魚は親がえさを持ってきてくれるわけじゃ無いから、大人も子供も自分で食べて生きていかないといけないからね」
「そうか、人間とは違うのね。母親が面倒を見てくれるもの」
「そう、知ってる?人間て子供を必ず未熟児で産んでるんだよ」
「そうなの?まだ哺乳類なんて習ってないから・・・・かな?知らない」
「人間はネアンデルタール人からクロマニョン人に進化したとき、脳の重さが倍になったんだ。それは女性にとってとっても危険なことだった。子供の脳が大きすぎて産道を通らなくなっちゃったんだ」
「それじゃ産めないじゃない」
「そう、産めないって言うのは母体に危険なことだからね。そこで人間が編み出したのが赤ん坊を未熟児のまま産むってこと。それならまだ脳は小さいから産道を通る」
「そうなんだ」
「だから人間の子供は他の哺乳類の子供に比べると、ほとんど何もできないに近い。目も見えないし起き上がることどころか、まともに動くことすらできない」
「そうね」
「だから人間は母性を発達させたんだ。子供が個体として必要なことができるまでは親が面倒を見るようにね。馬や犬なんかは生まれて直ぐに子供は母親の乳首を探し出せるし、目も見える。そしてほとんどの場合、生まれて直ぐに立ち上がれるだろ?でも人間の子供が立ち上がるのはずっと後だよね」
「ふうん、そう言われてみれば・・・・今までそんな風に考えたことなかった。そういうもんだって思ってたから」
「理系だと、当たり前だと思っていることを考え直してみることから全てが始まるんだよ」
「そうか、私、文系の方が似合ってるかもね」
「ま、考えるって言うのもトレーニングだから、いきなりは誰だって無理だよ」
「うん、ありがと、パパ、勉強になったし、楽しいね。この魚たちにも生活があるんだなって分かったよ。ここに来て教えてもらうと、なんかとってもよく分かる気がする。もう忘れないよ、大丈夫」
菜摘は晃一の話を聞きながら気持ちがすっきりとしたことを喜んだ。
二人が水族館を見終わったのは3時半くらいだった。
「これからどうする?スカイツリーを見に行く?」
「ううん、帰る」
「え?でもまだ時間、あるよ」
「良いの、帰る」
「どうしたの?気分でも悪いの?」
「そんなことない。でも帰りたいの」
「そう・・・分かったよ・・・それじゃ帰ろうか。途中で気持ち悪くなったら言ってね」
「うん、ごめんねパパ、せっかくすてきな車を借りてくれたのに」
「そんなの気にしなくて良いよ。とっても気持ちよくドライブできたから」
「それじゃ、部屋に帰ろ?」
「うん、そうするか」
「最後はまた送ってくれる?」
「もちろん」
「それじゃ、お願い」
菜摘はそれだけ言うと、後は黙ってしまった。晃一が車を飛ばして帰る間、菜摘はずっと静かに外を見ていた。途中で、
「ここまで来ると、結構スカイツリーが近くに見えるんだ」
とボツリと言った。晃一は菜摘の元気がなくなったことを心配した。水族館での出来事が原因だろうかとも思ったが、元気をなくすような理由は見当たらない。それでも帰りたいというのを引き留めるわけにも行かないので、『今日は早めに切り上げてお終いかな?』と落胆した気分で帰路を急いだ。
「菜摘ちゃん、家まで直接送ろうか?」
「ううん、マンションが良い」
「でも、疲れてるみたいだよ」
「そんなことない。大丈夫だから」
「そうなの・・・・」
晃一は今一歩納得しないまま、とにかく部屋へと急いだ。
高速を降りて一般道を走り始めたとき、菜摘が急に話し始めた。
「ねぇパパ、来週なんだけど、大丈夫だよね?」
「うん」
「でもって・・・・・あのね・・・・???」
「どうしたの?」
「連れて行って欲しいところがあるんだけど・・・」
「良いよ。どこに行きたいの?言ってごらん?」
「怒らない?」
「怒らないよ」
「あのね、神戸に行ってみたいの」
「神戸か・・・・・ちょっと遠いけど、ま、何とかなるかな」
「異人館とか見て、ポートタワーに上って・・・」
「そんなにたくさんは見られないと思うよ。日帰りなら」
「それじゃ、土曜から行けば良いんだね」
「ええっ?菜摘ちゃん、外泊できるの?」
「うん、明日のテスト次第だけど、たぶん大丈夫だと思う」
「お母さんが許してくれるの?」
「うん、木曜日に成績、出るから、それを見せれば・・・・、たぶん上がってると思うし」
「そうかなぁ・・・・、そういうのは成績とは別だと思うけど・・・」
「ううん、大丈夫。許してくれるよ」
「まぁ、一番お母さんを知ってるのは菜摘ちゃんだからね」
「パパ、泊まっちゃだめ?お金かかるから?少しなら貯金あるよ」
「そんなことないよ。土曜日はちょっとした用事があるけど、それは調整できるから。菜摘ちゃんと旅行できるなら行きたいさ。そりゃ」
「本当?大丈夫?良いの?」
菜摘は急に元気になった。目が輝いている。
「それじゃ、土曜日に学校が終わってから直ぐに出れば夜までに神戸に着ける?」
「うん、新幹線なら3時間くらいだから、途中で観光しても夕食には着くと思うよ。神戸の夜景はきれいだから、それを見ながら食事できるかな」
「本当?本当にそんなことできるの?」
「そりゃ、神戸に行って夜景のきれいなレストランを予約すれば、できるんじゃない?」
晃一は半信半疑で答えた。いくら成績が上がってきているとは言え、そんな簡単に高校生の女の子が外泊できるとは思えなかった。しかし、菜摘の様子を見ていると少しは希望が持てるのかもしれないと思ってしまう。
「そうなんだ・・・凄ーい。よおし、頑張るぞう」
菜摘は気合いを入れ直したみたいだった。菜摘がせっかくその気になっているので、晃一は一応その線で話を進めることにする。
「それじゃ、菜摘ちゃんが出かけられるとして予約とかしておくね」
「え?予約するの?」
菜摘はドキッとしたみたいだ。
「うん、だめだったらキャンセルすれば良いだけだから心配ないよ」
「そうなの?」
「うん、夏の神戸はそんなに混まないとは思うけど、一応準備しておかなくちゃね。どんなところに泊まりたい?」
「泊まるところ?ホテル・・???」
「そうだね。海沿いのホテルが良い?それとも少し山沿いのホテルが良い?」
「どっちがきれいなの?」
「それぞれだね。海沿いは直ぐ近くが海だから部屋から直ぐ港と船が見えるし、山沿いのホテルだと町並みを見下ろす感じで街の向こうに海が見えるよ。夜景がきれいなのは山沿いのホテルかな?でも海沿いは夜の海が見えるし・・・・」
「そうなんだ。どっちも素敵・・・・・パパが選んで」
「それじゃ、一応こっちで選んでおくけど、後で好みのホテルが見つかったら教えてね。それと、観光は日曜日になるから、日曜日に回るところは菜摘ちゃんが決めてよ」
「うん・・・・・でも、ネットで調べると時間かかるし・・・・」
「菜摘ちゃんが神戸に行きたいって思ったのはどうして?」
「前に友達が神戸に行った話を聞いたからなの。洋館がとっても素敵だったって」
「それじゃ、洋館を見て回るツアーは絶対だね。風見鶏の家とか鱗の家とかかな?」
「そうかも知れないけど・・・・よく分かんない」
「神戸の観光は、歩く距離が長くなるよ。歩きやすい格好は絶対だよ」
「そうか、でも私、パンプスとか持ってないからスニーカーで良いんでしょ?」
「うん、それが良いよ」
「パパは私にリクエストないの?こんな格好で来て欲しいって」
「う〜ん、そう言われてもね・・・・・、菜摘ちゃんは足がきれいだからミニスカートかな?」
「分かった。任せて。了解。でも、ちょっと子供っぽいのしかないけど、良い?」
菜摘は少しおどけて言った。
「うん、構わないよ」