第57部

 

 「赤外線でくれるの?ありがとう」
そう言うと友紀は自分の携帯で晃一のプロフィールを受け取った。
「今日はありがとうね、友紀ちゃん、送っていこうか?」
「いえ、駅は隣だから大丈夫です」
「ううん、それならなおのこと、直ぐなんだろ?」
そう言うと晃一は駅前でタクシーを拾うと友紀を乗せた。
「ごめんね、無理に付き合わせちゃって。なんか、このまま直ぐ一人になりたくなかったんだ」
タクシーの中で晃一がそう言うと、
「ううん、そんなこと無い。なんか分かるような気がするな。私も」
と友紀が言った。そのまま友紀を送っていくが、元々近くなので車で移動すれば家の近くまで送ってもほんの数分だ。
「あ、そこの角で良いです」
そう言うと友紀はお礼を言って降りていった。一人になった晃一はそのまま自分の部屋に戻ろうかとも思ったが、心が動揺しているので最寄り駅の駅前でしばらく飲んでから帰った。
しかし、部屋に帰っても眠れそうにない。どうして菜摘が去ってしまったのか、どうしても分からないのだ。別れる時までは、あんなに楽しそうで、嬉しそうだったのに。あんなに喜びの声を上げて何度も絶頂を極めたのに。あれほど晃一を欲しがって自分の奥深くまで肉棒を納めて声を上げたのに。あんなに教えて欲しがり、自分でもいろいろ試していたのに・・・・・・・。そして、あれほど素直だったのに。今となっては全て過去になってしまったのか。一瞬にして幸せの天辺からどん底に落ちてしまった気がした。
まぁ、そんなことを言っていては先に進めない。後悔ばかりでは辛い日が待っているだけだ。そう思って何とか気持ちを切り替えようとするが、さすがに直ぐは無理だった。神戸のホテルや列車の予約をキャンセルしなければ、と思い立ったが、菜摘への未練からどうしてもキャンセルをクリックできなかった。その夜、晃一はこの部屋に来て初めて一人で深酒をした。
翌日、仕事は何とか普通にこなした。オフィスアワーが始まってしまえば忙しさが気を紛らわせてくれる。会議、手配、トラブル対応、と仕事が心の辛さを忘れさせてくれた。いつものように、ろくろく昼食を取る暇も無くあっという間に夕方になる。
仕事に一段落付けると、一人になって菜摘がいない現実と向き合うのが怖くなり、晃一は早めに会社を出て友紀を待っていた。別に菜摘と結婚しようとかは考えていなかったが、いつの間にか夢中になっていたのは事実だ。今さらのように心の中の菜摘の存在の大きさを思い知らされた。だが、まだ菜摘と二人の時間を過ごすようになって一月も経っていない。そう考えると、何となく少し気が楽になった。
昨日と同じように、時間ぴったりに友紀は現れた。
「こんにちは、おじさま」
「うん、こんにちは。どこに行こうか?またマックが良い?」
「おじさまに任せます」
そうは言ってもマイナーな駅前なのでそんなに何でもあるわけではない。無難なところで近くの中華系のファミレスに入った。
「ここで良かった?」
「もちろん」
友紀はちょっとだけ笑った。その時初めて晃一は友紀をまともに見たが、端整な顔立ちの細身と言うよりは小柄な女の子だった。菜摘より10センチ近く背が低い。菜摘のようなプロポーションの素敵な美人ではないが、小柄で可愛らしい感じだった。取り敢えずデザート系のものを頼む。
「おじさま、昨日はちゃんと眠れた?」
「いきなりそれを聞くの?」
「ごめんなさい。どうだったかなぁって思って・・・・。ごめんなさい。人のことになると残酷なことも平気で聞けるものね。嫌なこと聞いちゃったかな」
「さすがに昨日はね・・・・正直に言えば、お酒をたっぷり飲んで寝たよ」
「おじさまはよくお酒、飲むの?」
「うん、仕事柄多いかな・・・・。でも、部屋であれだけ飲んだのはほとんど無いな。おかげで朝になっても少しお酒が残ってたよ。それでね・・・・ちょっと良い?その『おじさま』ってのが耳に付くんだけど・・・・」
「ごめんなさい。なんて呼べば良いの?三谷さん?」
そう言われると、ちょっと困ってしまう。名字で呼ばれるのは仕事みたいな気がするからだ。こんなプライベートな時にはどう呼ばれたいのか、自分でも分からなかった。
「うん・・・・そうだね・・・・」
曖昧な感じで答えたが、友紀は納得したらしい。
「それじゃ、三谷さん、今日の報告、するね」
「うん、お願い」
その言い方から友紀は、晃一の気持ちがまだ菜摘にあることが分かった。
「やっぱり気にしてたんだね、菜摘のこと・・・・・」
「そりゃあね。だって、菜摘ちゃんからは何にも連絡らしいのが来ないし」
「そうよね、今日も言ったの。ちゃんと連絡したの?って。そしたらまだだって言うから、はっきり言うべきだって」
「そうしたらどうだった?」
晃一は微かな希望を持って聞いた。そんなことは無いと分かっていても、もしかしたらまだ迷っているかも?と思ったのだ。
「ちょっと考え込んでから、考えとくって。連絡しなきゃいけないのは分かってるって」
その言葉で、本当に菜摘は自分から去って行ったのだと思い知った。辛いことだが仕方がない。菜摘は別の道を歩み始めたのだ。晃一はこれ以上引きずるのは止めようと思った。頭の中を菜摘と過ごすために借りた部屋や神戸の予約がよぎっていく。
「そうか、ありがとう。分かった。菜摘ちゃんは別の人を好きになったんだね。はっきり分かったよ」
「うん、やっぱりそう・・・・ね・・・。気持ちの整理、付く?」
「大丈夫。付けるよ。ありがとう。いつまでも引きずってちゃみっともないものね」
「そうよ。それでね、今日なんか、二人で登校してきたの」
「家が近くなの?」
「ううん、全然。完全に反対方向。駅前で待ち合わせたみたい」
「で、休み時間も昼もずっと一緒なの。こっちが話しかけるチャンスを探すの、大変だったんだ」
「完全にその気だね」
「そうなの。で、菜摘に聞いたの。おじさま、じゃなかった、三谷さんに伝えるから、理由を教えてって」
「教えて欲しいな。それは」
「そうでしょ?そうしたら、自分から連絡するって」
「そう?連絡するって言ってた?」
晃一の言葉にはちょっとだけ期待がこもっていた。それは直ぐに友紀にも分かったようだ。
「うん、でも、期待しない方が良いと思う。だって、その後直ぐに彼と一緒に歩いて行ったもの」
晃一はいい加減、期待するのは止めようと思った。ほんの今、気持ちに整理を付けると決めたのに馬鹿みたいだと自分でも思った。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど?」
「友紀ちゃんたちの女の子って、みんな彼ができると学校の中で堂々と一緒にいるの?」
「ううん、いろいろ。そんな子もいるし、学校では完全に別々の子もいるし。どっちかって言うと、あんまりべたべたしない子の方が多いかな?だって、一応進学校だから勉強に気合い入ってる子が多いし。だから、最近は菜摘のことでみんないろんな噂してる」
「どんな?」
「突然乗り換えたとか、やっぱり若い子にはかなわないとか・・・」
「菜摘ちゃんは気にしてないの?」
「うん、なぜか全く。少しくらいは耳に入っているはずなのに。前は結構噂を気にする子だったのによ」
「ふぅん・・・・・」
「きっと三谷さんに出会って変わったのね」
「そんなことってあるの?」
「あるのよ。だって菜摘がそうだもの。女の子ってオトコで変わるみたい」
「そうなんだ」
「三谷さんが変えたのよ。菜摘を」
「そんなこと言われても」
「どうやったらあの真面目なおとなしい子を変えられるのかな?いったい何をしたの?」
ちょっとだけ友紀は意地悪そうな顔で晃一を見つめた。
「何もしてないよ」
「ほんとう?」
「そういえば・・・・・最初はどっちかって言うと、菜摘ちゃんの方が積極的だったこともあったかも・・・」
晃一は最初、普通のデートのつもりで出かけたのに観覧車で菜摘がいきなりキスをしてきたことを思い出して言った。
「ふーん・・・そうなんだ。でも、そんなこと言っちゃだめ」
「どうして?」
「なんか、責任転嫁してるみたいだもの」
「そんなつもりは無いよ。本当にそう感じたからそう言っただけで・・・」
「分かってます。三谷さんはそんな人じゃないってことくらい。でも、こういうときは別の言い方で言うべきだと思うの」
「はい、ごめんなさい」
「もう、何言ってんのよ。怒ってるわけじゃないのに、もう」
友紀はそう言うと軽く微笑んだ。
「でもね?菜摘が変わったことは事実。もしかしたら今の菜摘が本当の菜摘かもしれないけど、今までの菜摘とは絶対別」
「ねぇ、その高木って男の子、どんな子なの?」
「名前を言ったのは私のミス。忘れて」
「でも・・・」
「知りたいの?」
「うん」
「でもね、それはやめておいた方が良いと思うの。どうしてもって言うなら名前だけじゃなくて何でも教えるけど、それってその向こうに菜摘の影を見てるってことでしょ?彼のこと、知れば知るほど辛くなるだけだと思うけど?」
友紀の言うことはもっともだと思った。知ったところで菜摘が戻ってくるわけではないし、自分との違いを思い知らされるだけだ。
「そうか・・・・それもそうだね。ごめん、教えないで」
「うん」
「友紀ちゃん、良いアドバイスだね。恋愛経験は豊富?」
「あのね、そんなこと女の子に言うの?信じられない」
「あ、ごめんなさい。謝ります。本当にごめんなさい」
「もう、振られた直後だから許してあげるけど、絶対NGワードよ」
「はい、もう言いません」
「そう言う優しくて素直なところが菜摘を引きつけたんだなぁ」
「友紀ちゃん、俺に忘れろって言っておいて、自分からそんなこと言うの?」
「アハ、今度は私がごめんなさいだね。謝ります」
「ははははは」
「ふふふふふふ・・・」
晃一は友紀と一緒に笑った。その時、晃一の携帯がメールの着信を告げた。着信音から菜摘からだと分かった。晃一の表情が硬くなった。直ぐにメールを読んでみる。
「菜摘から?」
「うん、ちょっと待って」
晃一はメールを開けると、久しぶりの菜摘からの言葉がかなり長く綴られていた。
『パパ、急に連絡しなくなってごめんなさい。友紀から聞いてると思うけど、私、月曜日に告白されました。その時の私の気持ちから言いますね。土曜日にパパの所から帰って、直ぐにテストの準備で勉強したんだけど、身体が疲れていてあまり勉強できませんでした。その時から少し考えていたんです。パパと一緒に過ごすのはとっても楽しいけど、パパと一緒にいるとどんどん自分が自分でなくなっていくような気がして、ちょっと怖かったんの。特に土曜日の夕方のリビングでのこと、私、あんなになるなんて思っても見なかった。あの時は夢中だったけど、タクシーの中で落ち込んだんです。それで、告白された時に考えました。ちょっとパパと距離を置こうって。告白してくれた子は高木君て言いますけど、ごく普通の男の子です。でも、一人だと絶対パパの所に行きたくなるから、少し無理してるけど高木君と一緒にいることにします。わがまま言ってごめんなさい。でも、パパのこと嫌いになったわけじゃないの。それだけは分かってください。それと、神戸には行けなくなりました。たぶん、土曜日は高木君の家に行くと思います。パパへ』
晃一は友紀の前だったが2回読んだ。友紀はじっと晃一が読み終わるのを待っている。晃一の表情から決定的なメールだと言うことは想像できたらしい。やがて、晃一が静かに携帯を閉じた。菜摘の言葉遣いが最初の頃に戻ったような改まったものなのが辛かった。
「三谷さん、大丈夫?」
「・・・・・・・あ、うん。大丈夫だよ。これではっきりしたよ」
「そう、また辛そうね。さっきより怖い顔してる」
「ごめんね、友紀ちゃん、心配して貰ってるのにこんな顔ばっかりで。またちょっと落ち込んだみたいだよ」
「ううん、私だって経験あるもの。そう言うメール。誰だって落ち込むわ。それでいいのよ」
「そうだね、分かっていても直接読むとやっぱりね」
「そのメール、見せて貰っても良い?」
晃一はちょっと躊躇った。あまりにも内容がプライベートだったからだ。
「いやならいいの」
「ううん、ちょっと考えちゃったけど、友紀ちゃんがケアしてくれてるんだから、友紀ちゃんにはメールを読む権利があるね。読みたければ読んで良いよ。でも、菜摘ちゃんの正直な気持ちとか載ってるから、びっくりしないでね。それと、菜摘ちゃんの気持ちは分かってあげてね」
「はい、分かってる。菜摘とは友達だから」
そう言うと友紀は晃一の差し出す携帯のメールを読んだ。さすがに刺激的な内容でびっくりしたが、状況にぴったりはまるのは確かだ。ただ、菜摘と晃一がここまで深い仲だと思っていなかったので、ちょっと読まなければ良かったと思った。そして友紀は携帯を晃一に返すと、ゆっくりと話し始めた。これを知った以上、友紀だって正直に伝えるべき事があると思った。
「三谷さん、私みたいな高校生が言うのも変だけど、私もこの前三谷さんと同じことがあったの。私の場合は突然じゃなかったけど」
「もしかして、振られたの?」
「そう」
「そうなんだ。やっぱり落ち込んだ」
「うん、部屋でだいぶ泣いた」
「そうか、こういうのはやっぱり誰だって辛いものね」
「でも、ここで一度辛い思いをしないといつまでも中途半端な辛さが続くでしょ?それなら一度思いっきり辛い思いをしてわんわん泣いてすっきりした方が良いと思うの」
「それは友紀ちゃんの経験から?」
「・・・そう・・・おかしい?」
「まさか。絶対そんなこと無いよ。嫌な気になったのなら謝る。ごめんなさい」
晃一は素直に頭を下げた。
「高校生にもこうやって真面目に頭を下げるような人なのに、菜摘、どうして振っちゃったのかなぁ、私には信じられない」
「友紀ちゃんにだけ正直に話すよ。こうやっておれと菜摘ちゃんと二人を心配してくれてるんだから。今の俺には、菜摘ちゃんのメールにもあったように、菜摘ちゃんが俺のことを嫌いじゃ無いって書いてくれてるのが少しだけ救いかな」
その言葉に、友紀は少し考えてから言った。
「ううん、それって、すっごく勝手じゃない?ずるいよ」
友紀の口調は少し強かった。
「え?」
「だって、三谷さんを好きになったことだって、菜摘は自分が好きでやったことでしょ?それを勝手に変えておいて、そんな言い方するなんておかしい」
「そうか・・・・な・・・???」
「ぜったいそう」
「だから、俺との距離を置くために高木君の所に行くって書いてあったよね」
「それって、もしかして、まだ三谷さんのこと、好きな気持ちがあるみたいに受け取ったの?」
「はっきりとは書いてなかったけど、そんな感じはした」
「三谷さんには残酷だけど、それって絶対嘘よ。だって、今日だって二人ともすっごく幸せそうだったもの、特に菜摘は。菜摘もそんな自分を三谷さんが見てないことを知っててあのメールを送ってきてるんだから」
晃一はずきっと心が痛んだ。確かに、自分の今の気持ちの中に菜摘との甘い思い出に逃げようとしている部分が無いとは言えない。