宏一は由美を残してレストランに降り、ラーメンやカツサンドと言った普通の昼食を注文して由美を待った。しかし、由美はよほど景色が気に入ったのか、宏一がテーブルに全てのものを並べて待っていてもまだ降りてこなかった。宏一は目の前でのびていくラーメンを眺めていたが、やがて仕方なく、ラーメンだけは先に食べ始めた。するとそこに由美が来た。
「由美ちゃん、待ちきれなくて食べ始めちゃったよ」
「ごめんなさい。すっごく綺麗で、じぃーっと見てました」
「ほら、早く食べなさい」
宏一が少し機嫌を悪くしたようなので、由美はシュンとなって静かにラーメンを食べ始めた。宏一は由美が景色に夢中になっているのが面白くなかった。もっと宏一にくっついていて欲しいと思った。だから、思わず由美に文句を言ってしまった。
「由美ちゃん、今日は忙しいんだ。あんまり時間を掛けちゃダメだよ」
「はい、ごめんなさい・・・・・・」
「綺麗な景色で喜んでくれるのは嬉しいけど、あんまりはしゃがれるとね・・・・・」
「はい・・・・・」
由美は宏一が思った以上に怒っているらしいことに気が付くと、気持ちが落ち込んでいった。
「時間の事だってあるんだから、あんまり無駄にしちゃダメだよ。只でさえ遅れてるんだからね。これ以上引き伸ばさないでね」
珍しくねちねちと文句を言う宏一のその一言は由美にとってかなりきつかった。理由は良く分からなかったが、宏一が怒っているらしいことは確かだ。由美にとってそれは一番辛いことだ。ほんの今まで笑っていたのに、一気に笑顔が歪み、悲しみがこみ上げてくる。口元まで持ってきていた食べかけの箸をテーブルに置くと、下を向いて涙声で話し始めた。
「宏一さんが一生懸命考えてくれた旅行だから・・・・できるだけ楽しまなきゃって・・・・・それが宏一さんの気持ちだからって・・・・・宏一さんも喜んでくれると思って・・・・・私、本当は宏一さんと二人でいたかった。旅行なんてしなくても良かった・・・・・でも、宏一さんがせっかく連れてきてくれたからって思って・・・・・・でも、宏一さんが喜んでくれないなら、こんなところに来るんじゃなかった・・・・・・ごめんなさい。私、宏一さんを怒らせちゃった・・・ごめんなさい・・・・・」
そう言うと涙をポロポロと落とし始めた。
宏一は由美の涙を見た途端、自分の我が儘のせいで由美に悲しい思いをさせてしまったことに気が付いた。
「ごめんよ、由美ちゃん」
由美は静かに首を振った。まだ涙は止まらない。
「さっき、由美ちゃんと思いっきりキスしたかったのに、由美ちゃんは景色ばっかり見てたから寂しくてちょっとイラついてたんだ。ごめん」
由美の涙が止まった。じっと耳を傾けている。
「ごめんよ。リフトでも、もっと由美ちゃんを抱いていたかったのに『もう大丈夫』って離れちゃったから寂しくて。それで、展望台からなかなか戻ってこなかったから、由美ちゃんが俺のことを放り出したみたいに感じて・・・・・・ごめん。由美ちゃんにもっと甘えて欲しくて。でも、喜んでくれたんだから喜ばなきゃいけないのにね。ごめん」
素直に謝る宏一の言葉に由美は救われた。自分のことが好きだから怒っているらしい。何とか気持ちを切り替えて無理やり笑顔を作る。由美はまだ泣き腫らした顔だったが、それなら、と逆襲に出た。
「宏一さん、志賀高原の景色に嫉妬したの?」
「・・・・・・・そうかもね・・・・・」
「宏一さんて・・・・・子供みたい」
そう言うと目を真っ赤にしたまま由美はやっと微笑んだ。
「だから、ラーメンが冷めちゃうよ。食べようよ」
「はい。へへ、顔がぐしゃぐしゃになっちゃった・・・・・これでも少しお化粧したのに・・・」
由美はそう言うと、やっとラーメンとカツサンドを食べ始めた。
「由美ちゃん、ごめんね。お腹が減ってたから怒りっぽくなったのかな?」
「いいですよ。宏一さんにはもっと甘えないといけないって分かりましたから、もう謝らないでください」
そう言うと由美はカツサンドを平らげ、元気よくラーメンを食べ始めた。元々由美だってお腹が空いていたのだから食べ始めると早い。あっという間に平らげてしまう。
「宏一さん、食べました。ごちそうさま」
「それじゃ、行こうか」
「あ、宏一さん、あそこにパン屋さんがありますよ」
由美は宏一の手を取ると、甘えるように言った。
「あぁ、『天空のパン屋』さんだね。日本で一番高い所で焼いているパン屋さんなんだって」
「少し見ても良いですか?」
「食べたいの?それなら買っても良いけど。高い所で作るから膨らませるのとか大変らしいけど、味は普通のパンだよ。熱心なファンとかはいるらしいけど」
「はい、でもちょっとだけ、ね?良いでしょ?」
由美は宏一に甘えることで宏一の機嫌を直そうとしているようだった。宏一も由美に甘えられると嫌な気はしない。
「良いよ。それじゃ、ちょっとだけ。途中でおやつ代わりに食べる分だけね」
「はい、嬉しい」
由美はそう言うと、ちょっと周りを見てから素早く宏一のほっぺたにキスをした。そして店に行くと、あっという間にパンを3つほど選んで買ってきた。その由美を見て、宏一は嬉しくなった。せっかくこの景色を気に入ってくれた由美に小さなプレゼントをすることにする。
「由美ちゃん、良いかい。これから由美ちゃんは俺の言う通りにするんだよ」
「はい・・・・・・・なんですか?」
ちょっとだけ由美の表情に警戒の色が走る。
「俺はこれから一人で車に戻って車を一つ先の駐車場まで持って行くから、由美ちゃんはこれから十分だけ此処に居て、それからあっち側のリフトで下の駐車場に行くんだ。リフトを降りたら駐車場が目の前にあるから。良いね」
「え?私、一人で?」
由美の表情が驚きと怯えに変わる。
「そうだよ」
「どうしてですか?まだ怒ってるから?」
「違うよ。由美ちゃんがこの景色を気に入ってくれたのに、俺が怒ったお詫びなんだ。リフトからの景色をゆっくり楽しんでおいで。とっても綺麗だから。駐車場には先にいって待ってるから、絶対に会えるよ。携帯もあるし、大丈夫だよ」
「でも、私一人じゃ・・・・・リフトだって乗れるかどうか分からないし」
「大丈夫。さっき乗ったからもう乗り方は分かったろ?小さい子供だって一人で乗れるんだから、由美ちゃんならもう大丈夫だよ」
「はい・・・・・分かりました。絶対駐車場で見つけて下さいね。会えないと私、帰れない・・・」
「信用して。絶対に見つける。誓うよ」
「はい。分かりました。十分したらあのリフトですね」
「そうだよ」
宏一はそう言うと、さっき上ってきたリフトに乗って降りていった。由美は宏一を見送ると、一人でリフト乗り場の周りの草花を見始めた。本当ならもう一度展望台に上って山を見ても良かったのだが、宏一とあんなことがあったので、もう展望台に登る気は失せてしまった。興味の対象を切り替えたのだ。
しかし、由美の知っている草花とは違ったものが至る所にあり、高山植物の名前を知らないために悔しい思いをした。仕方ないので写メして東京に帰ってから調べることにする。
宏一に指定されたリフトはゆっくりと動いており、思ったほど乗るのが難しくなかった。ただ、座るタイミングが合わずに最初かなり大きく揺れて怖い思いをしたが、それでも何とか乗れたし、乗ってしまえば後は静かな空中散歩だった。
横手山に登った時のリフトの景色も素晴らしかったが、こちらのリフトの方が遠くまで雄大な景色が広がっているのが楽しめる。由美は音もなく動いていくリフトに乗って不思議な浮遊感覚を楽しんでいた。『これは宏一さんが私のために考えてくれたコースなんだ。あんなに時間が短かったのに。きっと一生懸命考えてくれたんだ。今日だけでもういくつの発見をしたのかな?』由美はベッドで宏一に抱かれる代わりに、宏一のプランの中に身を置くことで幸せを感じ取っていた。
宏一はと言えば、駐車場に降りてから速攻で由美の来る駐車場に向かったので、渋峠の駐車場に車を止めた時には由美がリフトに乗って降りてくるのがよく見えた。由美も宏一を見つけたようで、リフトから手を振っている。もっとも、目立つ車なので見つけやすいのは確かだった。
「宏一さぁ〜ん」
リフトから降りた由美は手を振りながら小走りで走ってくる。そのままの勢いで宏一の腕の中に飛び込むと、宏一の胸の中で顔を擦り付けながら甘えてくる。
「素敵でした。本当に綺麗だったの。ずっとずぅ〜っと山が遠くまで繋がっていて、全部下に見えて、空を飛んでるみたいでした」
二人はそのまま軽くキスをしてから車に乗り込んだ。由美はまだ興奮冷めやらない感じだ。
「宏一さん、ありがとうございました。本当に楽しかった。でも、宏一さんが隣にいて欲しかったです」
「由美ちゃん、無理に気を使わなくても良いよ」
「本当なの。宏一さんが隣にいてくれたら、いっぱい話もできたし、甘えられたし、本当にいて欲しかったんですから」
「嬉しいな」
「これでここから離れちゃうなんてちょっと寂しいくらいです」
「由美ちゃん、まだまだあるよ」
「え?次はなんですか?」
「ほら、着いたよ。日本の国道の最高標高点」
「え?本当だ。すごい」
車はほんの少し走っただけで直ぐに止まった。降りてみるとさっきリフトで降りてきた渋峠のヒュッテが直ぐ近くに見える。数百メートルしか走っていない。由美は車を降りると標高を示す石票に書かれた2172mと言う数字を見て、改めて自分がどれほどの標高にいるのか理解し、珍しそうに写メを撮った。
「宏一さん、私って高校一年生なのに、こんなにいろんな事知っちゃって良いのかしら?」
「由美ちゃん、知識はまだまだ奥が深いよ。それに、由美ちゃんはもういろんな事知ってるだろ?」
宏一がそう言うと、由美は一瞬何のことか分からなかったが、ハッと気が付くと、
「早くもっと教えて下さい」
と小さな声で言った。
二人はそこで記念写真を撮ると、しばらく緩やかな尾根沿いを進み、白根山の火口の横を通り抜けてから一気に山を下り始めた。
「あの白根山は河口が小さな湖になってて、絵の具を溶かしたみたいなエメラルドグリーンが綺麗なんだ」
「だからたくさんの人が駐車場から登っていたんですね」
「今日は時間が無くて寄れないけど、覚えておいてね」
「はい、次は連れてって下さいね」
「そうだね」
「ここから先はどれくらいですか?」
「まだまだ先は長いよ。まず、この下の温泉街にちょっと寄って、それからホテルまで行くんだ」
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