第 8 部

             

            それからしばらく、久美は幸一の前に現れなかった。郵便物が帰ってこないと言うことは、住所は変わっていないと想像できたが、連絡は一切無かったし、幸一も連絡するのを躊躇っていた。幸一は時々、会社の自分の部屋の窓から外を眺めてはぽつんと久美のことを思い出していた。

            受け付けの澤田が、

            「久美ちゃん、どうしてますかね?」

            と時々言う他は、次第に誰も久美のことを話題にしなくなっていった。そして久美が来なくなくなってから3ヶ月と少し経過した。

            ある日、幸一が会議から戻ってくると、部屋の電話の留守電のランプが点滅していた。普通の電話は受け付けを通るので、このランプが点滅していると言うことは、幸一が2種類持っている名刺のうちの直通番号が書いてある方の名刺を渡した人が電話をかけてきたと言うことになる。しかし、メッセージは入っていなかった。

            特に珍しいことではないので最初は気にしなかった幸一だが、それが一日おいて2回連続した頃から、少しおかしい、と思い始めた。社用で急ぐなら、留守電で最初に流れるようにメッセージの代わりに0を押せば受け付けが出るので、何度も空のメッセージを残すと言うことはプライベートの用件だと言うことだが、幸一にはそんなものは思い当たらなかった。『久美ちゃんかもしれない』そう思うと少しドキドキした。元々幸一は会議が多いのだが、電話の入る時間がいつも3時過ぎなので、その時間の会議をわざとずらして待っていると、翌日の3時に待ちに待った電話がかかってきた。

            「はい、三谷です」

            「・・・・あの・・・・」

            受話器から、か細い少女の声が聞こえてきた。

            「もしもし??」

            「あの、三谷さんですか?」

            間違いなく久美の声だった。

            「久美ちゃん、どうしてたの?元気だった?まだ怒ってる?」

            「・・・・・・・・・・怒ってません・・・・・」

            「今どこにいるの?会える?」

            「三軒茶屋の駅の近くにいます」

            「じゃぁ、これからそこに行くから待ってて」

            「私が行きます」

            「それじゃ、会社の近くのマックで待っててくれる?すぐに行くよ」

            「はい」

            久美は電話を切ると、フーッと大きくため息をついた。とうとう連絡してしまった。これまで何回か電話をしたが、電話に出て欲しいと言うよりは、出ないでいて欲しい、と言う想いの方が強かったかもしれない。ここで幸一に援助を求めると言うことがどういうことになるのか、分かっていながら否定し続けてきた。『三谷さんはいい人だから、絶対に嫌らしいことなんかしない』と何度も自分に言い聞かせるが、自分で自分を説得できずにいた。幸一に無理矢理ベッドに押し倒されることばかりを想像していたので『もしかして、私が幸一さんにそんなことを望んでるんじゃないの』そんなことまで考えてみたが、結局答えは出なかった。

            最初のうち、久美は考慮する価値もない提案だと思っていた。そんなことを言われて、すぐに『はい』という女の子に見られていた自分と、そんな目で見ていた幸一が悲しかった。しかし、少し頭が冷静になってくると、形はどうであれ、幸一の好意だと言うことだけは理解できた。良くは分からないが、少なくとも嘘をついているとは思えなかった。しかし、幸一の提案を受け入れると言うことは、自分が普通に持っている女の子の夢を捨て去らなくてはいけないことになる。それはやはり久美にとって屈辱以外の何物でもなかった。

            そして、久美がアルバイトをやめた途端、久美が何度も何度も計算したように、貯金が減り始めた。ほぼ久美の予想通りだった。分かっていながら『もしかしたら来月はこんなに減らないかもしれない』と思ってみたが、やはり正確に予想通りお金が減っていった。しっかりと出金を管理しているのだから、予想通りに減るのは当たり前なのだが、それを受け入れるのに丸二月かかった。そして、やはり幸一に頼るしかない、と思いきるまで更に一月かかった。今の久美にとって、幸一が久美の予想以上にいい人だろうと、予想よりも悪人だろうと、それしか頼る方法は残されていなかった。なんとしてでも久美が高校を卒業するまで弟と暮らしていかなければならないのだ。

            会社のビルが見えるマックで久美が待っていると、すぐに幸一が現れた。

            「やぁ、久しぶりだね」

            「はい」

            「久美ちゃんがここに入っていくのが会社の部屋から見えたんだ」

            「そうですか」

            久美はそう答えると幸一の会社のビルを見上げた。『私はもう会社のお客さんでもないし、働く人でもない。もう、あのビルに入ることはないのかもしれない』そんな想いが胸をよぎる。『あのビルは目の前の人が勤める会社だけど、自分には関係のない会社・・・』そんな風に感じた。

            「どうしたの?会社に寄ってく?みんな喜ぶよ?」

            「え?いや・・・、でも私」

            明らかに久美は迷っていた。

            「久美ちゃんにみんな会いたいって思ってるよ。特に受け付けのみんなが喜ぶと思うんだ。どうする?」

            そう言いながら、幸一は久美を連れて行くことに抵抗を感じていた。もし幸一が本当に連れて行こうと思えば、今の久美の様子から見て、立ち上がって受け付けに歩いていくだけで付いて来ただろう。しかし、幸一が久美にプライベートな提案をしたのは会社には内緒なのだ。それに、懐かしい顔に会うのは良いかもしれないが、正直な話、それを歓迎しない人がいるのも事実だった。

            久美が黙っているので、

            「行かなくても良いの?」

            と言うと、久美は大人しく頷いた。

            「それじゃ、しばらく待っててくれる?用事を終わらせたらすぐに戻ってくるから」

            そう言うと幸一は一度会社に戻っていった。

            久美は幸一が戻るまでの間、一人で本を読んでいた。大好きな本の筈だったが、何度読み返しても全く頭に入ってこない。同じページを何度も読み直す始末だった。幸一を待ちながら、『以前はこんなに長く待たせられることなんて無かった。やっぱり、もう逃げ出さないって分かってるから平気で待たせるのかな?』と思うと悲しくなった。

            幸一が戻ってくるまで1時間以上かかった。

            「ごめんね。どうしても抜け出せなくて」

            そう言うと、幸一は目の前にドサッとバーガーだのスィーツだのを置いて言った。

            「いえ・・・」

            『食事に連れて行かなくても良いように、こんなに買ったのかな・・・。すぐに家に連れて行かれるのかな』と思う。

            「今、食べられるだけ食べて、後は家に持って帰って二人で分けてね」

            「はい・・」

            『あ、違った・・・かも』

            「それじゃ、今日は時間、あるの?」

            「はい・・・」

            「食事、して行ける?」

            『食事?行く?どこへ?決まってるけど・・・・』

            「それじゃぁ、何を食べたいか教えてくれる?」

            「何でも・・・」

            「英二君も呼ぼうよ」

            「いえ、それはちょっと・・・」

            『英二にだけは秘密にしないと。絶対に秘密なんだから』

            「そう・・・。それじゃ、二人で食事に行こうか」

            「はい・・・」

            『どうせ、もう美味しいものなんて食べさせてもらえないんだから。釣り上げた魚に餌はやる必要ないものね』

            その日、幸一は久美をマグロ料理の割烹に連れて行った。そこは如何にも高級という感じで、広々とした個室に案内されて、二人で向かい合わせにポツンと座った。

            「いつもごひいきにしていただき、ありがとうございます」

            と店の人が深々と頭を下げるところを見ると、幸一は良く来ているらしかった。

            そこはマグロのいろいろな部分を料理して出す店で、胃袋の和え物、頬肉のステーキ、心臓の焼き物、マグロコロッケ、など久美にとっては驚きのものばかりだったが、決してグロテスクではなく、むしろ洗練された味だった。そしてコースの最後に、部屋の壁が開くと寿司カウンターが出てきて職人さんが寿司を握ってくれた。

            食事の間、あまり会話は弾まなかったが、幸一は食事の間は世間話をしたいのだと思った久美は、さすがにリラックスはできなかったが、食べ盛りだけあって食事は全て平らげた。

            そして食後のお茶を飲んでいると、幸一が話し始めた。

            「久美ちゃん、それで、考えてくれた?」

            「はい・・・・」

            「いいの?」

            「・・・・・・・・・・・・・・・はい」

            「毎週、来てくれるの?」

            「はい」

            「いつなら良いのかな?」

            「わかりません」

            「それなら、土曜日かな?」

            「はい」

            「じゃぁ、土曜日に決めよう」

            「何をすれば良いんですか?」

            「まず、食事を作って欲しいんだ」

            「私、料理なんて」

            「いつも作ってるだろ?」

            「それはそうだけど」

            「それと同じのでいいよ」

            「でも・・・」

            「お願い」

            「はい」

            「時間は何時から何時ですか?」

            「う〜ん、土曜日は会社から戻るのが6時くらいかな?それまでに食事を作っておいてくれればいいよ」

            「部屋の掃除とかは」

            「しなくて良い。掃除は頼んであるんだ。洗濯も」

            「はい。それじゃ・・・」

            「食事を一緒に食べて欲しいんだ」

            「・・・はい」

            「それと、食事の後お酒を飲みたいから、それも付き合って」

            「私、お酒は飲めません」

            「分かってるよ。横にいて付き合ってくれればいいよ。できれば、簡単なおつまみなんか出してくれると嬉しいけど。チーズとかね」

            「はい・・・」

            「できれば、なるべく遅くまで付き合って欲しいな。帰る時間が気になって時計を見ながら話をするのは嫌だから」

            「はい・・でも、電車が・・・」

            「帰りはタクシーを使うから」

            「はい・・・タクシー・・・・」

            久美はその意味を考えた。それは、電車が無くなるくらいの遅い時間までいて欲しいという幸一の気持ちの表れだ。

            「そう、タクシーのお金はいらないよ」

            「・・・・・・・」

            「そうそう、ウチまでの地図、渡したっけ?」

            「あの・・・・・無くしました・・・」

            幸一に渡された紙は全て捨ててしまっていたが、とてもそうは言えなかった。

            「それじゃ、これを持って行ってね」

            幸一は家への道順を印刷した紙と鍵を出した。

            「こっちはウチのマンションの鍵と食事の買い出し代。鍵の使い方はね・・・・」

            幸一の説明を聞き漏らさないように注意して聞きながらも、久美の気持ちはどんどん落ち込んでいった。