ウォーター

第三百八十八部

 
「ねぇ、お昼ご飯は食べないの?」
「いえ・・・食べます」
「どこで?タクシーに乗ったら宿に行っちゃうんだろ?」
「だったら、ここで・・・・・・」
結衣はそう言うと、携帯で探し始めた。
「こっち・・・・みたい・・・・」
結衣はそう言うと駅から少し離れたカフェに向かって歩いて行った。宏一は黙って付いていくだけだ。ただ、結衣の表情が少し明るくなった気がした。二人が付いたカフェは現代風のおしゃれなカフェで、少し待ったがログハウス気分の明るいところだ。
「何を食べたい?」
「宏一さんは?」
「俺は白いカレー、かな?結衣ちゃんは?」
「バナナチョコワッフル」
「お昼に?それだけじゃ足りないだろ?」
「・・・・・・・・・」
結衣は言葉に詰まった。とにかく緊張しているので結衣はそんなにお腹が減っていないのだ。それに今朝は母親がしっかりとボリュームのある朝食を出してくれたこともある。
「ごめん、それじゃ、結衣ちゃんはバナナチョコワッフルだね。ドリンクは何が良いのかな?ウーロン茶でいい?」
宏一はそう言うと、二人分のランチを注文した。
「あの・・・・」
結衣が何か言い掛けた。
「どうしたの?」
「母が・・・・・ちゃんと全部私がやりなさいって・・・・注文も支払いも・・・・・だから・・・・」
「あ、そうか。それじゃ、ここからは全部結衣ちゃんにお願いするね」
「はい」
結衣は緊張して返事をした。宏一はその結衣の顔を見ながら、今は少し笑顔があるが、きっと宿に行けばまた暗い表情になるだろうと思った。だんだん結衣の様子が理解できてきたのだ。そして、目の前の端整な顔立ちの美人系の中学三年生の女の子が経験した悲しい出来事がいかにこの子を打ちのめしたのかが何となく分かってきた。
「結衣ちゃん、最初に言っておくね」
宏一は話し始めた。
「お母さんから連絡があって、月曜日にお母さんに会ったんだ」
「会ったんだ・・・・・・」
「そう、知らなかった?」
「宏一さんが一緒に行ってくれるってだけ聞いてたから・・・・・・」
「うん、お母さんはとっても心配してて、何とか力を貸して欲しいって。それで俺も結衣ちゃんが元気になれるならって言ったんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「何か言いたいこととかある?」
「宏一さんは・・・・聞いたんだ・・・・・」
結衣は母親がどこまで話したのか、詳しいことは聞いていなかった。
「そうだよ」
宏一はそう答えてふと思った。
「結衣ちゃん、お母さんが俺に話したこと、怒ってるの?」
「・・・・・・・・ちょっと・・・・」
とても『ちょっと』という雰囲気ではなかった。
「もしかして、俺には話したくなかったとか?」
宏一が言うと、結衣は宏一を睨み付けた。当たり前だ、と言わんばかりだ。確かに、結衣にしてみれば知られたくないことに違いない。
「結衣ちゃん、ごめんね。でも、お母さんを怒らないで」
「私のこと、話すなんて・・・・・信用したから話したのに」
「確かに、結衣ちゃんの大切なことだし秘密のことだし、お母さんを信じて話したんだろうから、それをお母さんが他の人に話すなんて結衣ちゃんにしてみれば裏切られた気持ちかも知れないけど・・・・」
「・・・・・・そう・・・」
「でもお母さんは俺に話して、それで結衣ちゃんに元気になって欲しかったんだよ。それは分かってあげてね」
「大人の理屈・・・・」
「そうかも知れないけど、俺だけは別だと思ってくれたんだと思うんだ」
「別?」
「そう、俺が結衣ちゃんのことに協力した本人だからね。お母さんにしてみれば、結衣ちゃんが自分の身体に触ることを許した人だからだと思うんだ」
宏一に言われて結衣は何となく分かってきた。本当は結衣にしてみれば、宏一とのことは最初の一つのステップに過ぎなかったから余り思い入れなど無かったのだが、宏一に抱かれて安心したのは確かだ。母親にして見れば結衣が選んだ特別な人だと考えたのかも知れない。それは理解できた。
「今度は俺から聞きたいよ。結衣ちゃん、どうして俺と温泉に来る気になったの?」
「お母さんが・・・・・行けば元気になれるからって・・・・」
「結衣ちゃんは、俺とこうして温泉に行くのは嫌じゃないの?」
「嫌じゃ・・・・・無い」
「でも、俺には知られたくなかった?」
結衣ははっきりと頷いた。宏一はやっと分かってきた。結衣にしてみれば、事情を知らない宏一と二人で過ごすことでひっそりと心の傷を癒やしたかったのだ。まさか宏一が知っているとは思わなかった。結衣は自分一人で元気になるつもりだったのだ。宏一は、結衣に話してしまったことを後悔した。結衣にしてみれば、言いふらすようなことではないのだから心の中に仕舞っておきたかったことなのだ。
「ごめん。結衣ちゃん。お母さんから聞いたこと、話すべきじゃなかったよ」
「もう遅い」
「そうだね・・・・・・ごめん・・・・」
宏一の様子に、結衣は少し呆れたが、宏一の気持ちは分かった。
「でも、聞いたこと、教えてくれてありがとう。本当は・・・・聞いて欲しくなかったけど、聞いたのなら、私、知っておきたかったから」
「・・・・・ごめん・・・」
「宏一さんが謝ることじゃない。それにお母さんにだって、怒ってないから、悪いのは私だから・・・」
「ねぇ結衣ちゃん、それでも俺と温泉に行く?良いの?」
結衣はしばらく考え込んだが、やがてはっきりと頷いた。
「いいの?」
「もう、決めたから」
「良かった」
やがて二人の前に注文したものが並び、二人は黙々と食べた。結衣は意外に自分に食欲があることに驚いていた。そして、これから何が起こるか分からなかったが、宏一に静かに甘えてみようと思った。ただ、抱かれるのは無理だろうと思った。心が底まで元気になるとは思えなかったのだ。
やがて二人は無言で食事を終えると席を立った。結衣が伝票を持って会計を済ませる。
「あれ?結衣ちゃん、クレジットカードを持ってるの?」
「はい」
「まだ中学生だろ?」
「家族カードだから・・・・お父さんの」
「ふうん、家族カードでも高校生以上だと思ったけど・・・・凄いんだね」
「よく分からないけど、お父さんが大切に持ってなさいって、審査が通ったからって・・・・・。そしてお母さんが旅行の間は全部カードで済ませなさいって。お金も貰ってきたけど・・・・・」
「ふうん、そうなんだ。やっぱり商売をやってる人って凄いんだ」
「わかんない・・・・。私とは関係ないし」
「まぁいいや、それじゃ、行こうか」
「はい」
二人はカフェを出た。
「次はどうするの?予定では・・???」
「宿に行くの」
そう言うと結衣は電話を掛けてカフェの名前を伝えた。
「もしかして、宿の車が迎えに来るの?」
「そう」
「凄い宿なんだね」
「お母さんの知り合いがやってる旅館だって。だから安心して良いって言ってた」
「どれくらいで来るって言ってた?」
「わかんない・・・・・。聞いてみる」
結衣は再び電話を掛けた。
「十分くらいだって。カフェの前で待ってなさいって」
「わかった。そうしよう」
「お母さんが、どこかに行きたかったら、お願いすれば行ってくれるって言ってた」
「結衣ちゃんはどこかに行きたい?」
「別に・・・・・」
「宿に行く?」
「・・・・・・・はい」
結衣は正直に言えば、どこにも行きたいとは思わなかったが、宿に直ぐに行きたいとも思わなかった。しかし、この流れだとどうしようもない。結衣は次々に決断を迫られるような気がして精神的に疲れてきた。
伊豆高原の駅前の道はどこもかなり狭いのだが、やがてその道には似合わないくらい大きな車がやってきた。黒塗りのセダンだ。宏一と結衣が二人で後席に座っても間がだいぶ開く。宏一がそっと結衣の手を取ろうとしたが、宏一の手が触れた瞬間、あっという間に引っ込んでしまった。
宿までは直ぐだったが、大きな車が結構狭い道を通っていくので結衣は少し不安だったようだ。しかし、着いたところは森の中で、車を降りると入り口に旅館の仲居が待っており、そこから回廊を通って一軒家にたどり着いた。どうやら完全離れの別荘になっている旅館のようだった。聞けば本館は近くにあるが別の場所だと言う。そして母親が言っていたように、出かけたければ車は手配するので連絡して欲しいと言って戻っていった。
結衣は不安そうにしているので、宏一から話しかけた。
「結衣ちゃんがここに決めたの?」
「そう。でも、私は二つから選んだだけ。お母さんが最初に探してくれたの。でも、予約したのが今週だからなかなか良い宿が見つからなくて、お母さんの知り合いに聞いたりして、この宿と他の宿を比べて好きな方を選びなさいって」
「もう一つの宿はどんなところだったの?」
「もっと現代的って言うか・・・・・ホテルっぽい感じで・・・・」
「それで結衣ちゃんはここにしたんだ。古い木造の家だよね。こういう感じが好きなんだ」
「落ち着くって思って・・・・・・。明るい感じのホテルっぽい感じの所も良かったんだけど・・・・・」
「凄いね。おっきなお風呂が部屋の直ぐ横にあるよ」
「・・・・・・・・・」
「どうしたの?」
「ううん、ちょっと・・・・・・」
そう言うと結衣は荷物を持ってパウダールームの方へと言った。制服を部屋着に着替えるのかと思っていたが、いつまで経っても戻ってこない。それに物音も気配もない。宏一は不思議に思ったが、まさか覗くわけにも行かず、しばらくリビングにポツンとしていた。すると、だいぶしてからドライヤーを使う音がして、それから結衣が戻ってきた。制服姿のままだが、何か雰囲気が違う。
「結衣ちゃん、どうしたの?急に居なくなったから心配したよ」
「ごめんなさい。・・・・お風呂に入ってきた」
「え?だってお風呂は、あれだろ?」
宏一はリビングの隣の浴槽を指さした。
「あれはおっきいけど、普通のお風呂がもう一つある」
「へえ?個室風呂だけじゃなくて、他にもお風呂があるんだ」
「そう、あっちに・・・・」
結衣がそう言うのでパウダールームに行くと、確かにその奥にもう一つ別の浴槽があった。
「凄いね。こっちの方が眺めが良さそうだ」
「うん、良かった」
結衣はお風呂に入って少し気分が落ち着いたようだ。少し口数が多くなってきた。
「それじゃ、俺もちょっと入ってみて良い?」
「はい」
「ありがと」
「あの・・・・ゆっくり・・・入って下さい」
「あれ?そう言えば、まだフロントで手続きしてないや」
「良いの、お母さんが全部してくれたから」
「凄いんだね。ありがとう。それじゃ、お風呂に入るよ」
宏一はそう言うと、着替えを持ってパウダールームに行った。確かにパウダールームの奥にもう一つ小さな露天風呂がある。リビングの横の風呂は大きい代わりに外に面しているだけという感じで余り外は見えないが、こちらは小さい代わりに景色も良く、杜の様子がよく見える。宏一は浴槽に身体を沈めながら、一人でのんびり入るにはこちらの方が良いと思った。
宏一が風呂から上がって浴衣姿になってリビングに戻ると、結衣はリビングで勉強していた。宏一が近くに座ると、結衣は自然に少し距離を置いた。
「結衣ちゃん、勉強してるの?偉いね」
「だって受験生だから」
「それはそうだけど、結衣ちゃんは成績も良いし、進学先だってもう決まってるんだろう?」
「一応入試はあるから」
「そうか、隣に座っても良い?」
「いいけど・・・・・・」
結衣はちょっと戸惑ったようだが、それくらいは良いだろうと思ったらしく特に嫌がったりはしなかった。横に座って結衣が問題を解いていくのを見ていると、少し簡単なのか問題を解くスピードが速い。
「この問題集は結衣ちゃんには簡単なんじゃないの?」
「旅行だから、基礎の確認くらいにしたの・・・・・でも・・」
そう言うと結衣は別の問題集を取り出した。小さな薄い問題集だ。
「こっちは難しいのが多くて・・・・」
結衣は何かを言いたそうな感じだ。


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